前回に引き続き渡辺京二著『逝きし世の面影』「第九章 女の位相」を抜粋させていただきます。
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アレクサンダー・ジーボルト(シーボルト)は1859年(安政六年)から61年(文久元年)かけて滞在した長崎での所見を次のように記している。それはジーボルト父子が鳴滝に居を構えて、村人に食事を振舞った際の模様だ。
「婦人たちにはソバと魚をふるまった。さらに国内で広く飲まれている酒を燗して出した。しばらくすると女たちは〝陽気〟になり、代表をよこして父に礼を述べ、父を腕で抱えあげかついで歩き回ろうとした。…田舎の人々の間ではほとんど常に一夫一婦制が広く行われているので、妻の座は、金持ちの町人あるいは貴族よりも良く、家庭内ではドイツの主婦と同じような役割を演じている」
♢ アレクサンダー・ジーボルト(Alexander Siebold 1846~1911)
『ジーボルト最後の日本旅行』(平凡社東洋文庫 1981年)ジーボルト(シーボルト)の長男、父とともに江戸入りする
♢ ジーボルト(シーボルトPhilipp Franz van Siebold 1796~1866)
『日本 』1・2・3・4(雄松堂出版 1977~79年)、『江戸参府旅行』(平凡社東洋文庫 1967年)ドイツの医師・博物学者
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ベーコンも、
「日本の農民のあいだに、最も自由で独立心に富んだ女性を見出すことには何の疑いもない」
「この階級では国中を通じて女性は、仕事はつらく楽しみは少ないけれど、頭を使う自立的な労働生活を送り、アメリカの女性の地位と同じように家庭内で尊敬された地位を占めている。彼女らの生活は、上流階級の婦人のそれより充実しており幸せだ。何となれば、彼女ら自身が生活の糧の稼ぎ手であり、家族の収入の重要な部分をもたらしていて、彼女の言い分は通るし、敬意も払われるからだ」
と言う。
また、ベーコンは女たちに訪れる老後の平和について、
「女の一生は日本では服従の連続といわれるが、後半生での服従は名目にすぎない。子どもが成長して嫁をとり、自分は隠居するとなると、女には自由で幸福な老年が訪れる。嫁に家政の実務をゆずりながら実権は保有しているし、息子夫婦にかしずかれて安楽な暮らしを送る。若い頃ままならなかった外出も自由だ。芝居見物、寺社詣りなど、毎日は娯しみにみちている。結婚生活前半の苦労は、この自由と安楽のためだったのである。」
ベーコンは開明的で自立心旺盛なアメリカ女性として、日本の女に忍従を強いる家制度をむろん否定的にとらえている。しかし彼女の委曲を尽くした考察と、ふんだんに紹介される事例を読めば、家制度とは男性本位のように見えて、その実、女性を主軸とする一種の幸福の保障システムではなかったか、という気がしてくる。
当時の人びとは何よりも家庭内の和合を重んじた。妻妾同居などは、大名あるいは上級武士の家のみに見られる家系存続システムにほかならなかった。男の勝手で妾が欲しいときは、妻や子どもに遠慮して別宅に囲うのがふつうであって、しかもそんな贅沢は一部の男にしか許されないと、彼女自身が認めている。
♢ ベーコン(Alice Mabel Becon 1858~1918)
『華族女学校教師の見た明治日本の内側』(中央公論新社 1994年)華族女学校教師として来日したアメリカ人女性
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外国人観察者が最初に強い印象を受けたのは、日本の女のいちじるしい活発さに対してだった。リュードルフは安政2年の函館での印象として、
「日本の女性は一般に、健康ではつらつとした様子をしていた」
と書いている。
♢ リュードルフ(Fr. Aug. Luhdörf 生没年不詳)
『グレタ号日本通商記』(雄松堂出版 1984年)プロシア商船の積荷上乗人
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また『ペルリ提督日本遠征記』によれば、
「下田の娘たちの立居振舞は大いに活発であり、自主的である」
という。つまり日本の女たち、少なくとも庶民の女たちは、観察者たちにけっして抑圧された印象を与えはしなかったのだ。
日本の女が外国人に対して物おじしないのは、彼らには非常に印象的だった。
♢ ペリー(Matthew Calbraith Perry 1794~1858)
『ペルリ提督日本遠征記』1・2・3・4(岩波文庫 1948~55年)、『日本遠征日記』(雄松堂出版 1985年)アメリカの海軍軍人、東インド艦隊を率いて来航、日米和親条約を結ぶ
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ポンティングには日本という国は、
「婦人が大きな力をもっている国に見えた」
「彼女らが支配しているのは家庭と宿屋である。外国人は食事が口に合うわけではないのに、外国式ホテルではなしに日本風の旅館に泊まりたがる」
「それは日本の家に一歩踏み入れば、そこに婦人の優雅な支配力が感じられるからである」「家庭では彼女は独裁者だが、大変利口な独裁者である。彼女は自分が実際に支配しているように見えないところまで支配しているが、それを極めて巧妙に行っているので、夫は自分が手綱を握っていると思っている」
♢ ポンティング(Herbert Goerge Ponting 1870~1935)
『英国特派員の明治紀行』(新人物往来社 1988年)イギリス人の写真家
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徳川期の女性は「三従」の教えや「女大学」などで縛られ、男に隷従する一面があったかもしれないが、現実は意外に自由で、男性に対しても平等かつ自主的であったようだ。 多くの外国人観察者が東洋諸国に比べればと留保しながら、日本の女性に一種の自由な雰囲気があるのを認めなければならなかったのは、女性の男性への服従という道学的なたてまえだけでは律しきれぬ現実が存在することに、彼らが否応なく気づかねばならなかったからではないか。
徳川期の女の一生は武家庶民の別を問わず、そう窮屈なものではなく、人と生まれて過ごすに値する一生であったようだ。悲惨な局面があったように見えるとすれば、それは現代人の眼からそう見えるだけで、それの一種の知的傲慢であるのかもしれない。
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これを見ると、なんだか女性天下の国ですね。その154「男女格差について」で紹介した、世界経済フォーラム(WEF)による「グローバル・ジェンダーギャップ・レポート(世界男女格差報告書)」の数値と大きなギャップがあります。
まさに女性にとって近世の日本は地上の楽園であったようです。
これは今の時代も変わりません(*^▽^*)
つづく